HOME > 雑記 > ウミヘビ胃内容物の液浸標本 (更新:)
沖縄県西表島で採取したアオマダラウミヘビの口腔内を観察していたところ、
その個体は口を開いたまま頭を傾ける異質な動きをした。
上手く表現は出来ないが、ネコが毛玉を吐く前のようなえずく動きに見え、
また経験上、間違いなく咬む前の予備動作ではなかったので恐らく嘔吐するであろうと思い、
ヘビの頭を下方に向け、急ぎカメラを構えてこれを撮影した。(fig.01)
検出した胃内容物はゼブラウツボで、呑み込まれたのは頭からである。
またウツボは脊椎骨が見えるまで消化されており、頭は無く、その全長は不明である。(fig.02)
胃内容物を採取する意図は全く無かったがウツボは十分に標本化できると思い、
これを自宅へ持ち帰り液浸標本に加工した。
fig.01:嘔吐する
fig.02:半消化されたゼブラウツボ
筆者は以前、新鮮なヒメハブを無水エタノールで固定して液浸標本を作製した経験があるが、
今回のウツボはやや腐敗が進行していたため、その腹部を切開して体腔内の腐敗物を除去し、
無水エタノールよりも強い殺菌効果を持つとされる消毒用エタノールで固定を行った。
また筆者は初期腐敗を起こした死体の防腐処理や、魚の液浸標本を作製するのは初めてである。
しかし意図せずとも採取してしまった手前、今更これを放棄する事は許されない。
時間、体力、貴重な食べ物を失って吐く程のストレスを感じたウミヘビにしろ、
大きく育って最後には食べられてしまったウツボにしろ、彼らに対して通すべき筋というものがある。
今回も冷蔵庫や洗面台の使用で、周りの人間にごちゃごちゃと小言を言われたが、
野外活動家としてそういった厄介事をどう避けるべきか、という点についても少し触れてみたい。
ウミヘビの胃内容物であることを説明し、宿泊先の許可を得た上で冷凍庫で凍らせた。
臭いが漏れないよう、また中身が見えないよう梱包して冷凍し、自宅への輸送はクール便で行った。
生物の死体を自宅で処理する上で最大の障壁になるのは、家族や同居人の不理解である。
鮮度が良く、臭わない死体であれば奴らが居ないタイミングで処理すれば何の問題も無いが、
今回は諸事情(後記)により150日ほど冷凍庫内で保管し、
二重にしたビニール袋の上からでも腐敗臭が突き抜けてくる代物を処理しなければならない。
従って、いつものように「無断、無許可、見えない所で、清潔に、迅速な証拠隠滅」という、
他者の精神衛生面に深い気遣いをした紳士的な手法が使えないという事である。
どうせバレるのであれば、予め断っておいた方が後のトラブルを防げるのは経験済み。
まず、@「ウミヘビが嘔吐し雑菌が繁殖した腐りかけのヤバい臭いがするウツボ」を、
A「腐敗した部位を取り除いて、殺菌、防腐処理して標本にしたい」訳である。
重要な点をかいつまんでこれを相手に伝えるには、@を「魚」、Aを「捌く」と訳すのが妥当である。
つまり「魚を捌きます」と相手に断れば良いわけである。
着手の許可さえ得られれば、後は事後承諾でどうとでもなるのだから。
ヘビの観察シーズンが概ね終わり、また気温が低く腐敗が遅くなる時期に加工を始めたかったので、
ウツボを西表島から自宅へ郵送後、冷凍庫内で150日間ほど保管した。(fig.03)
解凍にあたりビニール袋を取り外したところ、魚体には小さなカビのコロニーが発生していた。(fig.04)
これの処理は後々考えるとして、ひとまず死体が軟らかくなるよう流水を当てて解凍した。(fig.05)
fig.03:解凍前
fig.04:開封
fig.05:流水で解凍する
前工程で気になっていたカビのコロニーであるが、これは殆ど解凍中に流れて消えてしまった。
幸いな事にカビは魚体そのものではなく、その浸出液に発生していた様である。
とは言ってもそこそこの腐敗臭がしており、固定途中で雑菌による分解が進んでも困るので、
市販の洗剤を用いて魚体表面を洗浄し、殺菌を試みた。(fig.06)
腐敗臭も多少はどうにかなる事を期待しての行動だったが、
ウツボはヤバい臭いをそのままにフローラルな桃の香りも放つようになった。たいへん遺憾である。
fig.06:体表面の洗浄
新鮮かつ小さな死体であれば、エタノールにどぶ漬けでも固定は上手くいくだろうが、
今回は腐敗の進行度の関係から、痛んでいる事が予想される内臓は全て除去する事にした。(fig.07)
腹部を正中切開したところ内臓は消化管(腸)しか見当たらず、それを丁寧に引き抜いた。(fig.08)
なおこの工程には体を切り開く事で固定液の浸透を速め、腐敗を進行させない狙いもある。
fig.07:はみ出した内臓
fig.08:切開後
消化管を外すとその裏側は黒く変色しており、腐敗臭の大元はどうやらコレのようである。(fig.09)
正中線上の白い膜をナイフで裂くと、黒いゲル状の強い臭気を放つ物体が出てきた。(fig.10)
筆者は魚の体に詳しくないので最初は分からなかったが、切り裂いた部位は血管壁で、
ゲル状の物は腐敗した血液であり、ウツボの体には消化管と脊椎骨の間に太い血管が走る様だ。
腐敗で生じた物質は標本を劣化させて死体の長期保存に悪影響を与えると思われるので、
血液を可能な限りナイフでこそぎ落とし、それを適時水で洗い流しつつ取り除いた。(fig.11)
fig.09:黒く変色した体腔
fig.10:血管壁を切開
fig.11:腐敗物を除去する
固定の際にエタノールが薄まらないよう、不要な部位を取り除いた死体の水分を紙で拭き取った。(fig.12)
fig.12:水切り
密封可能な瓶へ魚体を入れ、固定液が染み渡るよう軽く振り混ぜながら消毒用エタノールを注いだ。
内容量1000mlの瓶に対して、エタノールを750mlほど入れると概ね満杯になった。(fig.13)
固定は冷蔵庫内で行いたかったので、密封した瓶の外面を洗剤でよく洗い、
臭いを十分に落としてから冷蔵した。
当たり前だが、気密性が完璧でない容器だと冷蔵庫内に腐敗臭が充満する事になるので注意。
また固定開始から22時間後に、体の向きを少し整えようと割り箸で弄ってみたが、
無水エタノールで固定したヒメハブに比べて魚体は大分速く固まっており、修正できなかった。
また固定液は72時間で白濁し強い臭気を放つようになったので、エタノールを全量取り換えた。(fig.14)
固定開始から14日目に腐敗やカビの発生が無い事を確認し、常温での固定を開始した。
それから更に7日後(固定開始から21日目)に保存用の容器へ移し、消毒用エタノールも全量交換した。
fig.13:浸漬直後
fig.14:浸漬22時間後
ウツボの解体は洗面台で行った。洗面台とは各家庭に普及している小型の解剖台の事だが、
その事実を知らない者は意外と多く、腐敗臭が残ると苦情が出てしまう。
"清掃は苦情が出る前に行う"のが鉄則であり、それは他者と生活する上での大切なマナーである。
大きな肉片は臭いが出ないよう袋に包んで捨て、特に臭いの元凶である血液が残らないよう注意し、
洗剤で洗面台をよく洗浄した。必要であれば薄めた漂白剤を噴霧するのも良い。
今回は作業終了から4日程、冷蔵庫に入れたはずのウツボが洗面台に居座り続けるかの様な強烈な腐敗臭がし、
7日目にはウツボが呪縛霊と化して洗面台を漂うような微妙な気配(臭気)に変わり、
10日目には「どこかで何かが腐ってない?」という程度になり、13日目には殆ど臭わなくなった。
電車の中吊りや下らない雑誌等には「たったの1ヶ月で体重がXキロ減少!」とよく書いてある事から、
それに満たない13日という期間は万人、特に女性にとって非常に短い時間と言えるだろう。
また筆者は先述したマナーを熟知しているので、強い臭気がしたのは僅か96時間だけであった。
固定開始から72時間でエタノールが白濁したものの腐敗は進行せず、無事に固定できた。(fig.15)
また解体時に白色だった脊椎骨はエタノールが浸透するごとに透明に変色していった。
暗色型のトカラハブの様な体表面の色素は殆ど脱色していないが、
これはヒメハブの時と同様、経時的にゆっくり抜け出ていくものと思われる。
fig.15:93日後
(2018/02/14)
今回は初期の腐敗が生じた死体を固定し、標本化に成功した。
固定の成功には以下の点が影響したと思われる。
また改善を要する点とその対策は下記の通りである。
・腐敗した死体を洗剤で洗うことは、防腐処理する上である程度有効だろうが、
腐敗臭が無くなる事を期待してはいけない。
・洗面所でちょっとしたバイオハザードが発生した原因は、恐らく腐敗した血液除去の際に、
それが水飛沫と共に壁紙に付着したためだと思われる。
壁紙は洗えないのでレジャーシートで壁を覆うか、全て洗える風呂場での処理が望ましい。
・固定処理の際に22時間ほど放置してしまい、整形処理が出来なくなった。
以前、無水エタノールに浸漬したヒメハブはここまで早く固定されなかったので完全に油断していた。
整形は標本の固定具合を見つつ、小まめに行うべきであった。
野外活動家であれば、自身が持ち込んだブツで他者と揉めた経験は誰しもある事だろう。
拾った死体、ウンコ、嘔吐物、ウンコ、まだ生きている何か、寄生虫、
悪臭がする物、見慣れない食材、生物の断片などを持ち込んだあの時である。
先の項目で述べた幾つかの対処法はあくまでも外野とのトラブル防止策であって、
根本的な問題解決にはならない点に注意して欲しい。
周囲の人々の「常識」や「正常な認識」といった下らない思い込みを少しずつ削り取り、
徐々に侵食して「自分色」に染める事は、野外活動に取り組む上でとても大切である。
はじめはソレを嫌がっていた家族も、ショック療法を繰り返す内に感覚が麻痺してくるので、
「あら、また何か持ち込んだのね(糞野郎が)・・・」程度の反応に落ち着いてくる。
(そうならない場合はショックの強度と試行回数が足りないと思われる。)
そして駆け出しの頃はそういったブツを持ち込む事に多少の後ろめたさがあった貴方も、
たかがヒト一種のためにどれ程の生物が蹂躙されているかを何度も何度も直視する内に、
門外漢の発する決まり文句を毎回相手にするのが段々と面倒臭くなって、やがてどうでもよくなっていき、
最終的に罪悪感の無い、澄みきったクリーンな心で調査や研究に勤しむ事が出来るようになってくる。
先に挙げた例の中では特に、生物の死体は一般的に汚物扱いされて忌避されるが、
それらには野生生物が置かれている現状を知るための貴重な手掛かりや、
時には直接的に別個体の命に関わる重要な情報を含んでいる場合がある。
例えば1997年7月に発見されたイリオモテヤマネコの轢死体を調べたケースでは、
死亡個体はメスの成獣で乳腺の発達と乳汁分泌が認められ、育児中の母猫であると考えられたので、
目撃情報の収集を行ったところ事故現場付近で子猫を保護できた例がある。(安田他 1999)
もしこの死体を「汚い」だの「気持ち悪い」だのと一般論を振りかざして軽々に扱っていれば、
先に述べたような事には決して成り得なかっただろう。
人間様の勝手な都合で死なせた生物を調査しない、あるいは標本化しないという事は即ち、
その生物のために使えるデータを放棄して、再度その命を踏みにじる行為に等しい。
もし貴方が個人ではなくヒトが奪った物に対して"けじめ"をつけるために死体と真剣に向き合おうと思った時、
あるいは死体が汚いと言いながら冷蔵庫で食品を腐らせるお花畑野郎の脳内に飛んでいる妖精さんを、
蝿叩きで思い切りスマッシュして差し上げたいと願ったとき、この記録が少しでも役に立てば幸いである。
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